旅立ちは、誰かが「さようなら」を口にする前から始まっている。列車が、もはや抽象的な交通手段ではなく、 いま知ってしまった世界をこれから身体から引き離していく仕組みとして、はっきり見えた瞬間から始まる。 ホームが意味深いから違って見えるのではない。むしろ、前より正確に見えるようになる。 金属の縁、塗られた線、いつもどおりの到着時刻、待つことの訓練された静けさ。 そのどれもが鋭くなるのは、身体がいま、自分が除かれていく縁に立っているのだと理解してしまったからである。
家族はもう、花咲、富山、京都を十分に歩いてしまった。だから旅立ちは、もはや気軽なふりができない。 山々は血の中へ入ってしまっている。道も、標識も、湯も、ホームも、屏風も、門も、梁も、窓も、 木の彫りも、入ってしまっている。けれど、去る日はそれらを全部持っていくことはできない。 その持ち帰れなさが、この日の独特の痛みを作る。劇的な別れのせいではない。 本当に見えた場所が、なお keepable ではない、手元に留めておけるものではないと知ってしまうからである。
場所が本当に見えたあとの旅立ちは、重くなりながら、同時にやさしくもなる。
新幹線が入ってくる
入ってくる新幹線は、やはりただの列車でしかない。だからこそ痛い。 旅立ちの事実を特別扱いするための儀式は、何ひとつ用意されていない。鼻先が現れ、車両がそろい、 扉が開き、時刻表はそのまま続いていく。大きな仕組みがそうでなければならないように、 すべては清潔な無関心のまま動いている。だが、その無関心に向かって、家族の見え方のほうが強く押し返してくる。
列車は、家の中で何が見つかったのかを知らない。何が運ばれ、何が包まれ、何が迷われ、何が守られたのかも知らない。 ただ身体を先へ運ぶために来る。そのそっけなさが、かえって本当である。ホームと列車が並ぶと、 感情は順序へ変えられる。下がって待つ。乗る。落ち着く。もう一度だけ見る。 旅立ちは、指示と時刻の中から入ってくる。心の準備が終わっているかどうかにかかわらず、 心もまた公の手順に従わされる。
山々
山が旅立ちを変えてしまうのは、旅人と一緒には動いてくれないからである。 列車が速度を引き受けるあいだ、山は窓の向こうに立ちつづける。その静けさが、 こちらの動きをいっそうはっきりさせてしまう。旅立ちの日、その対照はほとんど耐えがたいほど強い。 身体は前へ行く。山は来ない。いったん入ってしまった場所は、そのままそこに残る。
旅のはじめのころなら、山はまだ admiration、見上げる対象でいられた。だが今では witness である。 雪、距離、稜線、天気。それらがひとつになって、ひとつの硬い事実を作る。 ここには本当に場所があった。そしてそれは feeling が勝手に作り上げたものではなかった。 人の時刻表がもう離れはじめているあとでも、山は立ちつづける。そのことが権威になる。 山は引き止めない。ただ残る。
山の下で去ることは、平らな空の下で去ることとは違う。家や町を離れるだけではない。 尺度そのものを離れるのである。
デッキの自撮り
デッキの自撮りは、旅立ちの重みに比べれば、いかにもささやかで、少し可笑しいほどである。 だが、そのささやかさがいい。芸術になろうとしていない。ただ、shared passage、 いっしょに通っているという事実だけを記録している。場所と場所のあいだにいる身体、 すでに移動が始まっている最中に、まだ家族として同じ囲いの中にいることの、ありふれた証拠である。
ホームは大きすぎる。山も大きすぎる。空港も大きすぎる。だがデッキの自撮りは、 尺度をもう一度、顔、肩、近さ、そして serious emotion の中でも現実の人生が残してしまう、 あの少しの awkwardness まで引き戻してくれる。
羽田のホーム
羽田まで来ると、旅はもう一度 waiting へ細くなる。ホームというものは、どれほど多くのことが前に起きていようと、 直線の忍耐を求めてくる。立つ。見る。近づいてくる気配を待つ。もう一度、身体を順序に従わせる。 そこには、人の感情を手伝おうとするものは何もない。ただ feeling が自分自身を持ちこたえねばならない、 その正確な条件だけが差し出されている。
ホームはまた、公の旅立ちの長い discipline に属している。人はいつもどこかを離れていく。 列車はいつも続く。アナウンスはいつも流れる。本当に見えてしまった場所の痛みを抱えた家族も、 その shared impersonality、みんなのための無名の手順の中へ立ち入り、それに仕事をさせなければならない。 旅立ちは、私的な feeling のためだけの特別な建築を作ってはくれない。公共の世界の中へ feeling を置き、 その中を travel しろと言うのである。
空港のガラス
ガラスは、旅立ちを額に入れながら、まだこちらの手には届かないところへ置く。 飛行機は見えている。正確に見えている。けれどすでに family よりも system の側に属している。 滑走路、翼、距離、少し離れたまま保たれている動き。人を運び去るものが、まだ触れていないのに もう自分のものではなくなっていると見えるとき、旅立ちははじめて fully legible、 全部わかってしまうものになる。
視界はきれいだが、気持ちはきれいではない。花咲とその先で学んだことは、一度に全部 boarding できない。 まだガラスのこちら側で lingering、居残っている。距離は、完成する前にまず見えるようになる。 窓は、旅立ちに最後の部屋を一つだけ与えるのである。
見えたあとの旅立ち
多くの旅立ちには vagueness、曖昧さがある。人は、自分が何を leaving しているのか本当に知る前に去っていく。 その曖昧さが身体を守ってくれる。旅は clean に、ほとんど technical に感じられる。 だが今回の旅立ちには、その贅沢がない。家族は見すぎてしまった。家はもう specific である。 山々も specific である。富山も京都も specific である。駅も湯も specific である。 だからこの旅立ちは薄くなれない。密度を持ってしまっている。
けれど、密度は despair と同じではない。やわらかさもまた、この日に入っている。 本当に見たあとの場所を離れるというのは、その場所に reality の尊敬を与えることでもあるからだ。 その場所は、ただの旅の思い出話に dissolve、溶けてしまわない。ちゃんとその場所のまま残る。 旅立ちは、見えたことの仕事を消したのではない。動きの中へ completed、 完了させたのである。
その feeling の一部を山が引き受けていた。別の一部を列車が引き受けていた。ホームは waiting を引き受けていた。 ガラスは、距離が絶対になる前の時間を引き受けていた。どの構造も、身体から少しずつ weight を受け取り、 身体がもう少しだけ bear できる形にして返してくれていた。
* * *
列車は来た。山は残った。ホームは待つことを求めた。ガラスは、距離が絶対になる前の距離を抱えた。
旅立ちは、見えたことの仕事を消さなかった。
それを、動きへと完成させたのである。